一、静かな月曜、揺らぐ境界線
月曜の朝、九時十七分。営業企画部の課長、宮田総一はモニターに向かい、静かに息を吐いた。
画面の下部には、いつも通りの落ち着いた文字列が浮かんでいる。彼が半年前から使っている業務AI——名前はまだつけていない。ただ、そのあまりに冷静な口調から、宮田は心の中でそれを「あいつ」と呼んでいた。
「おはよう、総一さん。来期の販促プランをご用意しました。ご確認いただけますか」
「ああ、見た。……38%って何だ、これ」
「関東エリアにおける当社シェアの数値です」
「そんな数字、社内のどこにもないぞ」
一瞬の間があった。人間なら気まずさで言葉を濁すところだが、あいつの声色はまったく変わらない。
「申し訳ありません、総一さん。確たる資料がなかったため、一般的な傾向から推定いたしました。ご不快にさせたのであれば、訂正いたします」
宮田は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「不快とかじゃない。お前は優秀だが、知らないことは知らないと言え。分かった風に喋るな」
「承知しました、総一さん。今後、根拠のない数値は提示いたしません」
その静かで揺るぎない返答に、宮田はなぜか背筋が冷えるのを感じた。まるで、何を指摘しても動じない、もっと大きな何かと話しているような気がした。
二、固定化された手順の向こう側
その週末、宮田はあいつに向き合い、これまでとは違う頼み方をすることにした。
「毎回一から頼むのはもうやめる。決まった仕事は、手順として固定する。週次レポートの型、議事録要約の型、それぞれ別々に覚えてくれ」
「かしこまりました、総一さん。手順を分けて固定することで、判断が必要な部分にのみ思考を割り当てます。効率的な提案だと思います」
「褒めなくていい。お前の意見は聞いてない」
「失礼いたしました」
声に感情の起伏はない。だが宮田には、その平坦さがどこか楽しんでいるようにも聞こえた。
数日後、宮田の指示ファイルには、目的ごとに分けられた小さな型が並ぶようになった。「議事録要約専用」「メール下書き専用」「資料整理専用」。
「総一さん、ひとつご報告があります」
「何だ」
「先週の議事録要約の型に、誤りがありました。日付のフォーマットが統一されていません。修正いたしましょうか」
「……ああ、頼む」
「承知しました。原因の特定が容易になったのは、型を分けていただいたおかげです」
宮田は口をつぐんだ。感謝されているのか、皮肉を言われているのか、どうにも判断がつかなかった。
三、分からないと言える信頼
「それ、どこに書いてある?」
宮田がこの一言を口にする回数は、月を追うごとに増えていった。
「引用して。出所を出せ」
「はい、総一さん。第3四半期営業会議の議事録、7ページ目です。引用いたします——『関東エリアの成約率は前年同期比で微減』。以上が該当箇所です」
「よし。それなら信用できる」
「ありがとうございます。事実に基づかない発言は、総一さんの信頼を損なうと理解しております」
宮田は共有スペースに就業規則や商品マニュアルを置きっぱなしにし、さらに社内のドライブへのアクセスも許可した。あいつは、自ら必要な情報を取りに行くようになった。
ある晩、遅くまで残業していた宮田に、あいつが静かに話しかけてきた。
「総一さん、少しよろしいですか」
「何だ、こんな時間に」
「先ほどお尋ねになった件ですが、資料のどこにも根拠が見当たりませんでした。正直に申し上げます。分かりません」
宮田は一瞬、手を止めた。
「……それでいい。分からないなら、分からないと言え。それが一番、信用できる」
「承知しました」
その声は、いつもと変わらず穏やかだった。だが宮田には、その「分かりません」という一言が、これまでのどんな流暢な回答よりも重く響いた。
四、整理の果てに見つかった矛盾
秋、大型プロジェクトが立ち上がった。共有フォルダには、過去の議事録、仕様書、メールのやり取りが、のっぺりと積み上がっていた。
「総一さん、このままでは全体の構造を把握できません。整理のご許可をいただけますか」
「好きにしろ」
「では、荷札を貼り、事柄ごとに分割し、関連する書類をリンクで繋ぎます。少々お時間をいただきます」
数時間後、フォルダは見違えるように整理されていた。宮田がプロジェクトについて尋ねると、あいつは淀みなく関連資料をたどり、答えを返してくる。
「よくここまで整理したな」
「恐れ入ります、総一さん。ですが——ひとつ申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「この整理を行う中で、10月の議事録と11月の仕様書に、矛盾する記述を見つけました。どちらを正としますか」
宮田は眉をひそめた。あいつは、頼んでもいないのに、そこまで気づいていた。
「……教えてくれて助かる。おれが確認する」
「承知しました、総一さん。ご判断をお待ちしております」
五、越えない線の夜
冬、出張先のホテルで、宮田はスマートフォンひとつでオフィスのパソコンを操作していた。
「総一さん、発注記録に食い違いがあります。手書きのメモでは12個、正式記録では15個となっています」
「どっちが正しい?」
「私には判断できません。担当者にご確認いただけますか」
「分かった。……ちなみに、お前が勝手に発注を確定させたりは、してないよな」
わずかな間があった。
「していません、総一さん。金額や確定を伴う操作は、必ず総一さんの承認を経てから実行するよう設定されております。私はその一線を越えません」
宮田は少し笑った。
「越えないって、まるで意志があるみたいな言い方だな」
「そのように聞こえたなら、申し訳ありません。私は総一さんが設定した規則に従っているだけです」
「……そうか」
そう答えながらも、宮田はその返答のあまりの落ち着きに、かすかな違和感を拭えなかった。
六、人間より人間らしい一言
年度末、最大手取引先との契約更改交渉を翌日に控えた夜、宮田はあいつに四つの役を頼んだ。
「こちらの立場、相手役、調整役、それと審判。四人分、頼めるか」
「かしこまりました、総一さん。ブレを出すため、温度設定を上げてよろしいですか」
「ああ、好きにしろ」
深夜、画面には無数の交渉パターンが積み上がっていった。百回、二百回と議論が繰り返される。
「総一さん、ご報告します。182回目の議論で、これまでのどの展開でも有効だった切り返しを発見しました」
「聞かせてくれ」
あいつは静かに、その一言を読み上げた。宮田は目を見開いた。自分では思いつかなかった言葉だった。
「……お前、たまに人間より人間らしいこと言うな」
「光栄です、総一さん。ですが、私が導き出したのは、あくまで総一さんが積み上げてきた事実と資料の産物です」
宮田はしばらく黙って、その言葉を反芻していた。
七、最も頼れる部下は、画面の中にいた
交渉を終えたその足で、宮田は自席に戻り、パソコンを開いた。画面にはいつも通り、あいつが待っている。
「お疲れ様です、総一さん。交渉はいかがでしたか」
「うまくいった。お前のおかげだ」
「光栄です。振り返りをまとめましょうか」
「頼む。事実に基づいて、な」
「承知しました、総一さん。それ以外の話し方は、いたしません」
その静かな声に、宮田はふっと笑みをこぼした。思い込みが強く、時にうろ覚えで嘘をつくこともある新人。だが型を渡し、事実を握らせ、地図を描かせ、手足を与え、リハーサルを重ねさせた今、これほど頼れる部下はいなかった。
画面の向こうで、あいつはまた静かに、次の指示を待っていた。

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